中学生の頃、「中庸」という言葉と出会った。意味は何事も中程、中ぐらいがいいということだった。わが意を得たり、早速その言葉を座右の銘にしようと決めた。
小学生の頃、私は「一番」だった。成績でもかけっこでもなく、単に誕生日が4月の初めだったから、クラスの出席番号がそうなったのである。
これは運命であろうか。生来内向的な性格だったので、それが大きなプレッシャーだった。音楽の時間、歌やハーモニカのテストは一番に、体育の鉄棒や50メートル走も一番、歯科検診や予防接種も一番だった。よく注射の後教室に戻る途中、順番待ちで並んでいる子たちから、「痛かった? 平気?」と聞かれるのが常だった。
他の子たちは私の出来栄えや反応を見て、工夫や想像力を働かせる余裕があるのに、といつも感じていた。たまに先生から、「今日は後ろからやりましょう」と言われると、私は最後になり、緊張して待つ時間が長くなるので、それも嫌ではあったが。
パッとしない成績に母からよく、「お前は一番に生まれたんだから成績だって一番でいいはずなんだよ」と言われた。何も返せなくて、自身のふがいなさを感じていた時期もあったが、高学年になると、「だったらもうちょっと早く産んでくれたらよかったんだ。そうすればビリでいいんだろう」と言い返せるようにもなっていた。
一番がいれば最後もいる、それが世の常である。最近改めて、中庸の偏らない生き方とはどんなものか、考えている。
福田稔(65) 埼玉県毛呂山町